華歆(かきん)
華 歆(か きん、永寿3年(157年) - 太和5年(231年))
故郷が地方の中でも名高い繁華街であったことから、官吏らが休日に皆そこで遊んでいたが、華歆は門を閉ざし家から出なかった。
議論においても常に公平で、決して相手を傷つけるような言動は取らなかった。
『魏略』によると、若い頃に邴原・管寧と遊学し、3人は親しくつきあっていたという。時の人は、3人合わせて「一龍」と呼んだ。
華歆が龍の頭、邴原が腹、管寧が尾とされた。
孝廉に推挙されて郎中となったが、病気のため辞職した。
中平6年(189年)に霊帝が崩御すると、鄭泰・荀攸らと共に何進に召し出され尚書郎となった。
董卓が実権を握り長安へ遷都した後、華歆は下邽県令として地方に出ることを願ったが、病気のため任地に赴けなかった。
後に藍田から南陽に向かったが、当時穣にいた袁術に引き留められた。
華歆は袁術に董卓を討つよう進言したが、採用されなかったため袁術の元を去った。
丁度、馬日磾が長安の朝廷から関東安定のために派遣されていたので、華歆はその属官となった。
また、東の徐州までやってきた時、詔により豫章太守に任命された。
華歆の政治は簡潔・公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。
『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた劉繇が没すると、その家臣達が華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に揚州刺史に任命されることは良くないとして、これを拒絶したという。
建安4年(199年)に孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知り、隠士の被る頭巾を被って降伏した。
孫策も華歆の声望を知っていたため、彼を上客として礼遇した。
翌5年(200年)、孫策が死ぬと孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から招聘された。
孫権は引きとめたが、華歆が自分を派遣し曹操と誼を交わすよう進言すると、孫権は喜んで中央へ赴かせた。
出発の時は数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別に印を付けておき、いよいよ出発する時になって、賓客達に全て送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆したという。
曹丕(文帝)が皇帝になると、鍾繇・華歆・王朗という曹操以来の名臣が三公となっており、曹丕は「この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と言った(「鍾繇伝」)。
231年に病死し敬侯と諡された。子の華表が爵位を継いだ。
『魏書』によると75歳であったという。
小説『三国志演義』では、当初は孫策に席捲された勢力の一つとして名のみ登場。
曹操が孫権と誼を通じるため使者を送ると、その返礼の使者として曹操の元に赴き、そのまま引きとめられる。
伏皇后を廃位する場面は『曹瞞伝』の叙述が採用され、冷酷で権力者に阿る悪辣な人物に描かれている。
曹操の死後、曹植の才能を妬む曹丕の心につけ込み、曹植の詩才を試した上で、上手く詩作できなかったらそれを口実に殺せばいいと進言している。
さらに王朗達と共に献帝を脅迫して禅譲を強要し、魏が建国されるとその功績により位人臣を極めることになっている。
曹叡即位後、蜀の諸葛亮の離間計にかかり、長安に駐屯する司馬懿の兵権を奪い誅殺するよう上奏している。
wikiより
覚える特殊能力
【火計・混乱・同討・鼓舞・落石・反計】
陣形
【鶴翼の陣】(かくよく)
平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2
【長蛇の陣】(ちょうだ)
山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。
新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】
攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2
新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】35 知力【知】80 魅力【魅】30 政治【政】85
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値51050・勇名100