三国志5 武将 辛毗

辛毗(しんぴ)

三国志5 武将 辛毗辛 毗(しん ぴ、生没年不詳)

兄は辛評。

先祖は、建武年間に隴西郡から東方に移住してきた一族だという。

 

若い頃は陳羣・杜襲・趙儼と並んで名が知られていた(「趙儼伝」)。

 

兄が袁紹の重臣であったため、辛毗も兄に付いて袁紹に従っていた。

 

曹操が司空になると召し寄せられたが、応じることができなかった。

 

袁紹の死後は袁譚に仕えた。

 

袁譚は袁紹の跡を継いだ袁尚と争った末に、弱体化したところを曹操に攻められ窮地に陥ったため、辛毗を和睦の使者として、曹操の元に派遣した。

 

この決定については使者の人選も含めて、郭図の進言が大きかったという(『英雄記』)。

 

曹操はこの時、荊州を討つため西平に駐屯していたが、袁譚の意向を知らされ、大きく喜んだという。

 

ところが数日すると、曹操は心変わりし、荊州攻撃を続行、袁譚と袁尚を争わせ共倒れにさせようと謀った。

 

辛毗は宴席で曹操の様子が変わったのを見て取り、郭嘉に相談を持ちかけた。

 

郭嘉の取り成しで曹操との会談の機会を得た辛毗は、袁譚と結び袁尚を討つことの利益を堂々と説いた。

 

曹操は辛毗の意見に納得した上で、袁譚との和睦に応じ黎陽に滞在した。

 

また、曹操の鄴攻略にも従った。

 

辛毗は以前、袁尚の下から自身の家族を連れ出すことには成功していたが、兄の家族を捕らえられてしまっていた(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。

 

このときに袁尚の部将として鄴を守っていた審配は、袁氏衰退の元凶であるとして、兄辛評の家族を皆殺しにしたという(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。

 

鄴の落城後、辛毗は兄の家族を救おうとしたが殺害された後であったため、捕虜となった審配の頭を鞭打ち、お互いに罵り合った。

 

さらに審配を助命しようとする曹操に対して、断じて処刑するように号泣しながら求めたという。

 

審配にも再仕官の意思がなかったため、曹操は処刑を命じた(「袁紹伝」が引く『先賢行状』)。

 

鄴攻略後、辛毗は曹操から議郎に任命された。

 

曹操と劉備が漢中を争うようになると、辛毗は曹休とともに曹操から曹洪の輔佐を任された。

 

曹操は、曹洪が女好きで金銭に執着する性格であることを心配し、辛毗と曹休に前漢の高祖の事例を引いて、その責任の重さを言い含めたという。

 

漢中から軍が帰還すると、丞相長吏に任じられた。

 

後漢から魏への禅譲に協力し(「文帝紀」が引く『漢紀』)、曹丕(文帝)が帝位に就くと侍中に昇進、関内侯の爵位を得た。

 

正朔の議論があった時、辛毗は意見を具申し、曹丕から採用された。

 

曹叡(明帝)が即位すると、潁郷侯に爵位が進み、300戸を得た。

 

234年、蜀の諸葛亮が渭南に進撃してきた(五丈原の戦い)。

 

司馬懿が、以前より何度か蜀との交戦を願い出ており、今回は軍を押さえきれない様子であったため、曹叡は辛毗を大将軍軍師・使持節に任命し、出撃に逸る諸将たちを押し留めさせようと派遣した。

 

辛毗が派遣されると、全軍は粛然となり、主将の司馬懿以下、諸将はみな辛毗の指示に従ったという。

 

諸葛亮が死去し蜀軍が撤退した後、中央に帰還し衛尉に復職した。没年は不明だが死後、粛侯と諡された。

 

小説『三国志演義』では名前は辛毘と表記されている。袁譚配下として登場し、史実と同様。

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 辛毗【混乱・同討・収拾・激励・火矢・沈着】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2  

 

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 辛毗武力【武】14 知力【知】74 魅力【魅】82 政治【政】80

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値32200・勇名0