三国志5 武将 劉備

劉備(りゅうび)

三国志5 武将 劉備劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))

祖父は劉雄、父は劉弘である。

祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。

 

父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。

 

熹平4年(175年)、15歳の時に母の言いつけで、従叔父の劉元起(劉雄の甥)の援助を得て、その子の劉徳然(劉備のいとこ)と共に、同郷で儒学者として有名な盧植の下で学問を学ぶようになる。

 

この時の同窓に遼西の豪族の庶子の公孫瓚と同郷の高誘(中国語版)がおり、劉備は公孫瓚と高誘らに対して兄事しており大変仲が良かったという。

 

同時に牽招とも交流があり、「刎頸の交わり」を誓った仲と伝わる。

 

柿沼陽平によれば、盧植は175年に九江郡太守となり、病で辞職し、すぐに廬江郡太守になり、その1年余りのち(ただし178年以前)に議郎となっており、しかも劉備が訪れたときに盧植は「もとの九江太守」と名乗っていることから、盧植には当時学生を直接教える時間などほとんどなく、劉備が師事した期閒はせいぜい数ヶ月あったにすぎない。

 

学生時代の劉備は乗馬や闘犬、音楽を好み、見栄えがある衣服で身なりを整えた。

 

黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げた。

 

191年(初平2年)、敵軍に敗れて、昔なじみの中郎将・公孫瓚の元へ身を寄せる。

 

興平元年(194年)陶謙は劉備を豫州刺史に推挙して認められた。

 

その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとした。

 

劉備は初めは断ったものの、親交があった陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。この時に鄭玄の推薦で、北海郡の人の孫乾を従事として迎えた(『鄭玄伝』では、陶謙の推挙で豫州刺史に任じられた時とする)。

 

陳到は劉備の豫州刺史時代からの配下とされ、陳羣も劉備が豫州刺史に任じられた時に登用され、別駕となった。

 

 

下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。

 

苦境に陥った劉備を援助したのは、徐州の大地主であった糜竺であり、劉備は後々まで彼を重用することになる。

 

袁紹が敗北したあと、自ら兵を率いて劉備討伐の構えをみせてきた曹操に対して衆寡敵せずと判断し、袁紹の元から離れ荊州の劉表の元へと身を寄せた。

 

(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。

 

そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。

 

諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。

 

建安16年(211年)、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために、劉備に対し兵を益州に入れて欲しいと要請してきた。

 

ところが、要請の使者である張松と法正は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまうように勧めた。

 

龐統もこの話に乗るように進言し、劉備はこれを受け入れた。

 

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正と数万人の兵を引き連れて、蜀へ赴いた。

 

蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。

 

龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は「今はその状況ではない(これは重大な事であるから、あわててはいけない、他国に入ったばかりで恩愛や信義はまだあらわれていない、それはいかん)」と述べて退けた。

 

劉璋は劉備に兵や戦車や武器や鎧などを貸し、劉備軍は総勢3万人となった。

 

劉備本軍は涪城を占拠し、冷苞・劉璝・張任・鄧賢を破り、綿竹の総指揮官である李厳を降伏させるなど、初めは順調に進んでいたものの、劉循・張任が守る雒城にて頑強な抵抗に合い、1年もの長い包囲戦を行なわざるを得なかった。

 

この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって戦死した。

 

劉備は李恢を漢中に派遣して馬超を味方に引き入れさせた。

 

劉備の蜀の乗っ取りは功を成した。

 

蜀を奪って安定した地盤を得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。

 

建安20年(215年)、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権が荊州の諸郡(長沙・桂陽・零陵)を引き渡すようにと言ってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら荊州の地を返します」と答えた。

これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせた。

 

建安24年(219年)、自ら陣頭指揮を執り漢中の夏侯淵・張郃を攻め、法正と黄権の策に従いこれらを撃破し、夏侯淵・趙顒らを斬り殺した(定軍山の戦い)。

その後、曹操自身が漢中を奪還すべく軍を率いて攻めてきたが、劉備は防御に徹して、曹操軍に多くの損害を与え、曹操軍を撤退させた。

 

東では荊州を奪還するべく孫権は呂蒙たちとともに策を練り、関羽が曹仁の守る樊城を攻めている間に、曹操と同盟を結び、荊州本拠を襲って、孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。

 

これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった。劉備の養子の劉封は関羽の救援に赴かず、対立していた孟達の軍楽隊を没収し、孟達が曹操に寝返り、曹操軍に上庸を奪われた。

 

劉備は諸葛亮の提案に従い、劉封を軍規により処刑させた。

 

張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。

 

張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。

 

劉備は呉を討伐しようとしたとき、人をやって李意其を迎えた。

 

李意其が来ると礼を尽くして敬い、出兵の吉凶を尋ねた。

 

李意其はこれに答えず、紙と筆を求めて、兵・馬・武器の絵を数十枚描きあげると、すぐさま一枚一枚これを破り捨て、

 

また大きな身体の人物の絵を描き、地面を掘ってそれを地に埋めて立ち去った。劉備はたいへん不快がったという。

 

秦宓は天の与える時期からいって必ず勝利は得られないと説いた廉で、獄に幽閉されたが、後に釈放された。

 

劉備は章武元年(221年)、孫権に対する報復として趙雲の諫言を押し切って親征(夷陵の戦い)を行った。

 

翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、孫桓は、敗走する劉備を追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。

 

劉備は、山中をたどり険害を乗り越えて、脱出し白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営し、崩御するまで滞在した。

 

孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。

劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らをやって返事をさせた。

 

劉備は病を発し病床に臥せってしまう。章武3年4月24日(223年6月10日)崩御した。享年63であった。

 

小説『三国志演義』は、黄巾の乱によって世が乱れる中、劉備が関羽、張飛と桃園の誓いを結び、義勇兵を起こす場面から始まる。

 

『演義』の中の劉備は「双股剣」と「的盧」を愛用している。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 劉備【火計・落石・伏兵・激励・沈着・反計】

陣形

【鶴翼の陣】(かくよく)

平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 劉備武力【武】79 知力【知】77 魅力【魅】99 政治【政】80

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45170・勇名3340