三国志5 武将 于禁

于禁(うきん)

三国志5 武将 于禁于 禁(う きん、生年未詳 - 黄初2年(221年))

 

黄巾の乱に際して同郷の鮑信が義兵を募った時に、それに参加した。

 

初平3年(192年)、鮑信が戦死すると、馴染みであった曹操の下に馳せ参じ、将軍の王朗の配下に加えられ、都伯となった。

 

王朗は弓馬に優れた于禁の才能を高く評価し、優に大将軍とするに足るとして推挙した。

曹操との面談により軍司馬に任命された于禁は、陶謙が治める徐州の広威を攻撃してこれを陥落させ、陥陣都尉に昇進した。

 

興平元年(194年)からの呂布との戦いでも、別働隊を指揮して濮陽の南にある呂布の別陣2つを破り、更に別働隊を指揮して須昌で高雅を破った。

 

寿張・定陶・離孤の攻略や、張超が立てこもる雍丘の攻略に従い、全てを陥落させた。

 

建安3年(198年)、曹操に従軍して穣で張繡を攻め、下邳で呂布を生け捕りにした。

 

建安4年(199年)4月、別働隊として史渙・曹仁らと共に射犬で眭固を攻めて打ち破り、これを斬った。8月、曹操が袁紹討伐のため官渡に向かう(官渡の戦い)と、于禁は先陣を務める事を自ら望んだ。

そこで于禁に延津を守備させて、曹操は軍勢をまとめて官渡に引き揚げた。

劉備が徐州で叛逆したので、曹操は劉備を征討した。袁紹が于禁を攻撃したが、于禁の守りは堅く、袁紹は陥落させる事ができなかった。

 

その後、袁紹軍を打ち破り昇進。

 

荊州の劉表に身を寄せた劉備が侵攻すると、夏侯惇の指揮下で撃退に赴いたが、博望坡で劉備の計略にかかり苦戦し、李典に救われている(「李典伝」・蜀志「先主伝」)。

 

建安13年(208年)、曹操が荊州を征伐する際、于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷の7将軍は、章陵太守・都督護軍となった趙儼に統括された(「趙儼伝」)。

 

建安14年(209年)、張遼・張郃・臧覇らと共に陳蘭・梅成を討伐した。

 

最初、于禁と臧覇が梅成を攻撃して3000余の軍勢を降参させたが、後に梅成は再び叛き張遼・張郃が攻撃する陳蘭と合流したため、張遼らの軍勢は兵糧が不足した。

 

しかし、于禁が兵糧輸送の任務に当たったため、攻撃が途絶える事はなく、張遼らは陳蘭を斬る事が出来た。食邑を200戸加増し、以前と合わせて1200戸とした。

 

当時、于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃と共に名将と謳われており、曹操が征伐に出る度に5人が交代で、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた。

 

于禁の人柄は剛毅で威厳があった。

 

賊の財物を手に入れても懐に収めず、賞賜を与えるなど清廉でもあったが、法律を重視して部下を統率するなど法律を絶対視する事があり、あまり兵士・民衆の人望を得る事ができなかった。

 

先述の張遼・楽進・張郃・徐晃の4人がいずれも「兵士をよく可愛がり、命令とあらば喜んで服従した」と評されているのとは正反対である。

 

曹操は朱霊の軍勢を取り上げる時に、威名が轟いていた于禁に数十騎を率いさせて指令書を届けさせた。

 

朱霊やその部将たちは動く事ができず朱霊らは于禁の部下という立場に降格されることになったが、皆震えて服従した。

このように于禁は人々から一目置かれていた。

 

ここからが悲しい。

 

関羽の水攻めにあう樊城の戦い。

 

建安24年(219年)、曹操が長安にいるときに、劉備軍の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した(樊城の戦い)。

 

于禁は援軍の将として七軍の指揮を執り出陣した。

 

この時、漢水を遡るつもりで船を用意していた関羽に対し、陸路を伝ってきた于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の氾濫が発生したため、于禁ら七軍が水没し、于禁は指揮していた3万の兵と共に関羽に降伏して捕虜となった。

 

同じ頃、樊城の北に駐屯していた龐徳も水没して関羽に捕らえられたが、降伏せずに曹操への忠義を貫いて打ち首となった。

 

両者の報を承けた曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いて死を選んだ)龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったという。

 

蔣済と司馬懿は「于禁殿らは洪水のせいで降ったのであり、戦いに失敗したわけではありません」と曹操に説いている(「蔣済伝」)。

 

関羽は于禁の大軍を捕虜にした事で兵糧が欠乏し、

 

呉との国境である湘関の米を強奪した。

 

孫権はこれを聞くと遂に荊州へ侵攻し、呂蒙を先鋒として派遣した(「呂蒙伝」)。

 

孫権が荊州を奪うと、江陵で捕虜となっていた于禁は、今度は孫権によって捕らえられ賓客として持て成されたが、虞翻にはその態度を罵倒された。

 

さらに虞翻は、忠義を貫けなかった者への見せしめに于禁を殺すよう主張したが、孫権は取り合わなかった。

 

しかし于禁は帰国した後、虞翻を大いに称賛したという(呉志「虞翻伝」が引く『呉書』)。

 

曹操が亡くなり、曹丕(文帝)が禅譲を受け即位すると、孫権は魏に藩国としての礼を取った。

 

221年、于禁は他の捕虜とともに魏に送還されることとなった。

 

曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりとやつれていた。曹丕は于禁を表向き慰め安遠将軍に任命し、呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させた。

 

しかし曹丕は予め、関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した有様を絵に描かせておいた。

 

于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのため病に倒れ、死去した。

 

子の于圭が跡を継いだ。諡は厲侯。厲は「扶邪違正」などの意味がある。

 

于禁は死後までも嘲られたのだった。

 

于禁と同じく汚名を残したまま死去した鄧艾や呉質が、後に汚名を返上する機会があったのに対し、于禁は最後まで機会が与えられなかった。

 

于禁と同格の張遼・楽進・張郃・徐晃ら、格下の李典・龐徳・典韋らが、建国の功臣として曹操の廟庭に祭られたが、于禁は祭られていない。

 

小説『三国志演義』では、青州兵を処断し曹操軍をまとめた逸話が紹介されている一方、曹操に降伏した劉琮を曹操の命で暗殺したり(史実では劉琮は曹操に仕えた後、昇進を重ねている)、龐徳の忠義を疑い手柄の妨害をする場面があり、奸臣曹操の忠実な手先として貫徹している。

 

哀れな最期を促すためか降服の場面では惨めな命乞いをしている。

 

この描写は処刑された龐徳の忠義心を、より引き立てることになっている。

 

弓馬の術に優れた将軍として登場するが、一騎討ちをする機会は少なく、馬超と打ち合って逃げ去る場面がある程度である。

 

また赤壁の戦いでは、毛玠と共に水軍都督となっている。

 

wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 于禁【収拾・伏兵・火矢・速攻・強行・沈着】

陣形

【錐行の陣】

平地型の陣形機動性を重視した強襲用の陣形。素早く敵に接近することに向いている。弓攻撃力・弓防御力は最低なので射撃戦には向かない。研究で『強化騎兵』があれば攻撃力・防御力が更に上昇する。

強化騎兵 【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

強化騎兵 【有】

攻撃力・A 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

 

【鈎行の陣】(こうこうの陣)

山岳型の陣形山岳及び森林に適している。攻撃を受けた際に兵士が死亡せず、負傷するだけに止まる確率が高い。負傷した兵は回復可能なので実質的な兵の損耗が減らせる。防御向きの陣形である。

連弩  【無】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・A 機動力・B 射程2

連弩  【有】

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

【魚鱗の陣】

平地型平地形で「突撃」を実行できる陣形。攻撃力は全陣形中で最も最高。しかし、防御力・弓防御力は最低で、ある程度の損害を覚悟の上でとにかく早く敵を倒したい時に使う陣形。

関連兵器なし

攻撃力・A 防御力・D 弓攻撃力・C 弓防御力・D 機動力・A 射程2

 

【長蛇の陣】(ちょうだ)

山岳型山林で驚異的な機動力を発揮する陣形。防御力・攻撃力はさほどではないので、遠くの敵に接近するのに使うと良い。新兵器である『筒袖鎧』で防御力と弓防御力を高められる。『筒袖鎧』(とうしゅうがい、つつそでよろい)は、中国の甲冑・鎧の形式の一つ。古代中期に用いられた。

新兵器『筒袖鎧』を開発・【無】

攻撃力・C 防御力・C 弓攻撃力・D 弓防御力・D 機動力・S 射程2

新兵器『筒袖鎧』を開発・【有】

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・D 弓防御力・B 機動力・S 射程2

 

【雁行の陣】(がんこうのじん)

平地型弓での攻撃に特化した陣形。弓攻撃・弓防御は各陣形中最高、射程も長い。敵と接しての攻撃力は最低なので、味方部隊の後ろから援護射撃が適している。

関連兵器なし

攻撃力・D 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・B 射程3

 

その他の陣形

www.opio8.com

武将パラメーター

三国志5 武将 于禁武力【武】79 知力【知】71 魅力【魅】77 政治【政】40

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値46295・勇名6410