三国志5 武将 張温

張温(ちょうおん)

三国志5 武将 張温張 温(ちょう おん、193年 - 230年)

張温は若い頃から行ないが良く、容貌も立派であった。

 

このため孫権も態度を改め、手厚くもてなすようになった。

張昭からは特に期待された。孫登の教育係である太子太傅を務める。

 

224年、32歳で使者として蜀漢へ赴いた。

孫権の信頼に応え大任を果たしたため、諸葛亮をはじめ蜀の人々にも賞賛された。

この時に蜀の秦宓と問答したという。

陳壽の記述においては、張温が蜀の政治を賛美したことを孫権が不快に思ったことと、孫権が張温の名声の高さを妬んだことが、理由として挙げられている。

史家が「陳壽は個人的な主張を述べていること」を厳しく批判している。

 

陳壽の個人的な主張と異なり、正史によると蜀から帰国後に孫権から厚遇された。

孫権は張温に軍団を与え、豫章郡方面の守りについた。

その後、張温は殷礼の任官など他の人事のいくつかについても難癖をつけた。

張温がかつて選曹郎に抜擢した人物に曁艶という者がいた。

後に曁艶は尚書となったが、選曹郎の徐彪とともに人事で専断的な行動が目立ったため、呉の人々の恨みを買い失脚し自殺に追い込まれていた。

また、丞相孫邵は張温と曁艶に讒言されたため、辞意を表明したが、孫権の許しにより復職した。

その後、孫権へ賊討伐を申し入れてきたため、孫権は彼を信じて、張温に繞帳・帳下・解煩兵(呉軍の特殊部隊)それぞれ5000人を与え、豫章討伐に出る。

しかし、魏の侵攻があったときに山越の平定に張温が失敗した。

駱統は張温のために理を尽くして弁護したが、孫権に容れられることはなかった。

結局張温派閥の専横や治理の失敗により張温は左遷された上で呉郡に戻され、6年後に病死してしまった。wikiより

覚える特殊能力

三国志5 武将 張温

【混乱・収拾・鼓舞・沈着・陣立・反計】

陣形

【箕形の陣】(きけいのじん)

平地型の陣形平地向きの陣形。攻撃を受けた時に敵の損害を負傷だけにとどめ、脂肪率を下げることができる。城の上など、回復が可能な場所に陣取ると効果的で、どちらかといえば射撃戦向き。

関連兵器なし

攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・B 弓防御力・B 機動力・D 射程2

 

【方円の陣】(ほうえんの陣)

平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。

発石車  【無】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3

発石車  【有】

攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3

 

その他の陣形

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武将パラメーター

三国志5 武将 張温武力【武】15 知力【知】61 魅力【魅】69 政治【政】63

 

※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。

 

経験値45073・勇名870