司馬攸(しばゆう)
司馬 攸(しば ゆう、正始7年(246年) 太康4年3月14日(283年4月27日))
司馬昭の三男で、伯父の司馬師の猶子でもあった。初代皇帝の司馬炎の同母弟。
他に同母兄の司馬定国(遼東悼恵王)と同母弟の司馬兆(城陽哀王)・司馬広徳(広漢殤王)らがいた。
しかし、みな早世してしまったために、 彼が長兄の司馬炎に次ぐ有力後継者になったという。
司馬攸は、物静かで穏やかな人柄で、賢士に親しみ人を慈しんだ。また、学問を愛して文章にも巧みであった。才能や人望は、兄の司馬炎に優っていたという。
武帝は荀勗の言葉を信じ、また馮紞の進言を容れて、太康3年(282年)に司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命した。
司馬攸はこの措置に喜ばず、「私は、時代を正すには用済みとなってしまった」と言った。また、荀勗の予想通り、武帝の叔父である扶風王司馬駿や王渾・曹志(曹植の子)など多くの朝臣が武帝に対して次々と反対の意見を述べた。
これに対して武帝は「これは帝室内部、しかも兄弟間の問題であり他人にとやかく言われるものではない」と激怒した。
さらに諫言を成した者を最初は死刑にしようとしたが、夏侯駿らの反対で左遷・免官とした。太康4年(283年)、武帝は司馬攸の赴任のため盛大に文物を整えさせたが、司馬攸はこれが荀勗たちの策謀であることを知ると、怒りのあまり病を発した。
亡き母后の陵を守ること(=官を退く)を望んだが、武帝は許さなかった。
しかも、武帝が派遣した典医たちは、武帝の意におもねって「王に病気はない」と偽って報告していたため、司馬攸の病は悪化する一方であったのに、進行を強いられ続けた。司馬攸は無理をして威儀を整え、病で苦しんでいても日常と変わらぬかのように振舞った。
このため、かえって武帝は、病ではないのではないかと疑った。
それから間もなく(封国に出立の2日後)、司馬攸は宿所で血を吐いて、38歳で亡くなった。さすがに気が咎めたのか慟哭する武帝に、馮紞は言った「斉王は名が実に過ぎたのに、天下の心が帰しておりました。今、王が自滅してくれたのは国家の幸いであって、陛下が悲しまれることではございません」。
そこで、武帝は泣くのをやめてしまった。
また、司馬攸の子の司馬冏が、武帝に「父の病は医師どもが誣告していたものです。
詔で誅して下さい」と訴えると、武帝は要求を聞き入れて典医たちを誅殺した。wikiより
覚える特殊能力
【混乱・収拾・鼓舞・激励・沈着・陣立】
陣形
【鶴翼の陣】(かくよく)
平地型唯一『一斉攻撃』が実行できる陣形。一斉攻撃は非常に強力なので城にこもった敵を複数の味方部隊で包囲したとき使える。弓の攻撃力は高いので射撃戦には有利。
関連兵器なし
攻撃力・C 防御力・B 弓攻撃力・A 弓防御力・D 機動力・C 射程2
【方円の陣】(ほうえんの陣)
平地型の陣形防御に徹した陣形。どの方向から攻撃をされても防御が変わらないため、包囲されても不利にはならない。攻撃力は低いが『発石車』があれば弓攻撃力が飛躍的に上がる。
発石車 【無】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・D 弓防御力・A 機動力・D 射程3
発石車 【有】
攻撃力・D 防御力・A 弓攻撃力・A 弓防御力・A 機動力・D 射程3
その他の陣形
武将パラメーター
武力【武】30 知力【知】81 魅力【魅】78 政治【政】63
※【修行】などでパラメーターが上がっている場合があります。
経験値12050・勇名0