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関ヶ原の雑談

んで後に仙石 秀久(せんごく ひでひさ)どうなったのか?って感じで昨日続きってわけではないのだが、結果としてはそんな感じであるがざっくりと進めて行きたいと思うが、ここで始めに言っとくが後にと言ったが結構その間を端折っているので、Wikiかなんかで詳しくはご確認下さいまし、そして慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると豊臣政権内で武断派と文治派の対立とあるが、これは有名な関ヶ原の合戦の予兆ではないだろうか?んでこの武断派と言ったら加藤清正福島正則が有名である、んで文治派は関ヶ原の合戦と言ったら大一大万大吉の旗で有名な西軍の石田三成大谷吉継島左近小西行長とあるが五奉行増田長盛前田玄以は三成方に組しながら家康に内通していたとある、他に家康と内通していた武将は多かったと思う、じゃなんでそもそも秀吉天下の最中そのような仲間割れって言うか内ゲバが起こったのか、これはWikiにも書いてあるのだが、唐入り【文禄・慶長の役】でのこと前線での戦闘指揮に携わる諸将が、監察を担う石田三成ら文治派の報告を受けた秀吉の勘気を蒙る事例が多発した。これにより前線の諸将が三成らに対して怨恨を抱くようになった。このようにでかい組織になるにつれて何らかが起こるのが世の常でもある、東芝とかシャープなんかも同じことが言えるのだろってな感じで関ヶ原の合戦が起こりうるであろう要因はこんなところから広がって言ったのだろうと思う、その前にこの唐入りはキリスト教の人身売買などが影響していると思われるがこの歴史に触れると少し問題がありそうなので止めておこう、とのような事が発端で関ヶ原の合戦が起こるのだが仙石 秀久はどうしてたのか?慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集Wikiよりとあるこの会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。会津征伐【上杉景勝】の先鋒は福島正則細川忠興加藤嘉明が任じられた。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた。そしてその後どうなったのか?だが徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。慶長6年(1601年)2月上旬、家康は結城秀康のとりなしで豊光寺の西笑承兌を介して兼続に音信させ、景勝の上洛陳謝を促した。景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。このようにある、ここで気になる上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出す。という幻の城も気になるものだ・・・・・