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萬川集海と飢渇丸

以前に兵糧丸ことに触れてと思うが、あの有名な忍者も当然ながら兵糧丸について語っているに違いないだろう、そしてwikiにもあるように万川集海にある飢渇丸(きっきつがん・きっかつがん)兵糧丸に比べて、持久型の携帯食品として分析されている。朝鮮人ユキノシタカンゾウ、ヤマイモなど忍者が食べていたもの | 忍者マイスターそして延宝4年(1676年)に伊賀国郷士で藤林長門守の子孫である藤林左武次保武が著した忍術書である。都合上から「万川集海」とも表記されるが、古書では旧字の萬を用いた『萬川集海』が外題である。wikiよりそもそも藤林長門守とは一体誰なのか?これまたタートルズ記事を以前、藤林長門守と名前だけ書いたと思うのだが、誰なのか?説明していきたい、まずはじめに有名なのは伊賀忍者三上忍で服部氏、百地氏、藤林氏である、伊賀は古くからこの三大勢力が治めていた、だが服部氏、百地氏と比べこの藤林氏は資料が少ないそうだ、そして信長による天正伊賀の乱について書かれた書『伊乱記』でも『東湯舟村 富士林氏』と名前だけしか残っていないようだ、だが三重県伊賀市正覚寺に藤林長門守の墓は存在する、かなり質素なものである、なのであまりに記述がないため百地丹波と同一人物なのではいのか?というエピソードが結構多いのだが、真相は分からない、そして『萬川集海』とあるが有名なのが『忍秘伝』、『正忍記』が有名の三大忍術秘伝書とも言われている、そしてこの『萬川集海』なのだが藤林長門守の子孫・藤林左武次保武が書き記したとされている『萬川集海』は1676年(延宝4年)に序、凡例、目録、問答一巻、精神二巻、将知四巻、陽忍三巻、隠忍五巻、天時二巻、忍器五巻の全二十二巻と「軍用秘記」「和漢忍利証語集」「忍道梯楷論」の三巻からなる、忍術の一大体系書である。そしてこの『萬川集海』は陸軍中野学校のテキストとして写本されていたようだ、陸軍中野学校は戦争中の軍国主義であった日本のスパイ学校であるそして本能寺の変にも影響があったのではないだろうか?本能寺の変では服部氏出身の忍者2名も死んでいる、信長がそばに置いていた忍者で、警護と情報収集を常に行っていたようだ、ならばなぜ光秀による謀反は起こったのか?そもそも明智光秀なのか?確かに思い当たる節はある明智光秀「切り取り次第」は有名である、言葉としては色々あるが、こういう疑問は置いておいて話を続けよう、忍者をそばに置いていたのなら情報収集はできているはずで光秀の軍勢も把握できたはずである、なぜ情報収集網が機能しなかったのか?ここで先ほどの信長による天正伊賀の乱が関係するのだろう、天正伊賀の乱とは、忍びの地である伊賀を焦土に変え徹底的に殺戮を行ったのが信長の伊賀攻めである、このように顕如一向一揆紀州攻めなどもしているのだから当然恨むものは多かっただろうと思われる。